Smiley face
写真・図版
三浦按針の像と洋式帆船のモニュメントがある按針メモリアルパーク=静岡県伊東市
  • 写真・図版
  • 写真・図版
  • 写真・図版

 日米修好通商条約の批准書を運ぶため、江戸幕府が初めて派遣した遣米使節団が、オランダ製の咸臨丸などで太平洋を横断したのは幕末の1860年。しかし、実はその250年ほど前、日本で造られた2隻の洋式帆船がすでに太平洋を横断し、アメリカ大陸へと到達している。どんな理由で船は建造され、大海をわたったのだろうか。

家康の命を受け

 最初に向かったのは静岡県伊東市だ。伊東駅から徒歩で10分ほどの場所に東海館がある。1928年創業の老舗旅館で97年まで営業していたが、2001年以降は市の観光・文化施設として公開されている。目当ては2階にある、郷土ゆかりの人物を扱った「歴史の小部屋」の一つ、三浦按針(あんじん、1564~1620)の部屋だ。

 英国名ウィリアム・アダムス。1600年に豊後沖で漂流して救助され、江戸幕府の初代将軍・徳川家康に仕えた航海士・水先案内人。昨年、エミー賞の作品賞などを受賞した米ドラマ「SHOGUN 将軍」の主役の一人、ジョン・ブラックソーンのモデルでもある。

 部屋は按針に関する年表や船の模型、ジオラマなどでいっぱいだった。

 書簡などによると、按針は家康から洋式帆船建造の命令を受けた。用材を切り出せる山系が近いなどの理由から伊東を選び、松川の河口の砂州で造船を試みた。

 砂州の上に丸太などを敷き、そこで船を造った後、水を引き込んで進水させ、最初に80トン、次に120トンの船を建造したという。

メキシコ、そしてフィリピンへ

 松川の河口まで5分ほど歩いた。橋の向こうに、金属で造形された船と胸像、記念碑が見えてくる。「按針メモリアルパーク」だ。地元ゆかりの彫刻家である重岡建治氏が波濤(はとう)に立ち向かう洋式帆船と按針を表現している。

 按針の書簡などによれば、2隻目の船は完成後、日本近海で遭難したスペイン人らを乗せて、1610年にスペイン副王領ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコなど中米一帯)のアカプルコへと出航する。聖人に列せられたキリスト教神学者の名前をとって、サン・ブエナ・ベンツーラ号(サン・ブエナ号)と名付けられた船は、無事に現地へ到着。そこで売却され、スペイン領のマニラとアカプルコを結ぶ航路で使われたとされる。1隻目の船名は不明。江戸へ回航され、浅草川(現在の隅田川)の入り江に係留されていたようだ。

記事の後半では、伊達政宗が建造し、太平洋を2度往復した洋式帆船を紹介します。

 日を改め、宮城県石巻市に向…

共有